2023年11月24日、東京都港区に日本一高い超高層ビル群「麻布台ヒルズ」が開業しました。この開発には約35年という長い歳月がかかり、その間に約300人の権利者との交渉が行われてきました。この大規模再開発によって、かつての麻布郵便局跡地や我善坊谷と呼ばれた谷地は、330メートルを超える高層ビル群へと姿を変えることになりました。
開発前の地域は、小規模な木造住宅が密集し、建物の老朽化も進んでいました。再開発に向けて、森ビルは数十年かけて一軒家やアパート、店舗などを徐々に空き家にしていき、最終的には地域全体がゴーストタウン化したと言われています。
この記事のポイント!
- 麻布台ヒルズの開発における森ビルの地権者交渉の実態
- 立ち退きに伴う補償内容と代替住戸の提供システム
- 再開発によって失われた昔ながらの街並みと歴史
- 権利者たちへの具体的な補償内容と新生活への移行プロセス
麻布台ヒルズの開発に伴う立ち退き交渉の実態
- 再開発地域は約300人の権利者が居住
- 麻布郵便局跡地から高層ビル群へ変貌
- 森ビルによる30年以上の地権者交渉の経緯
- 立ち退き後の代替住戸提供の実態
- 地権者への買取補償と家賃補償の内容
- 空き家化によるゴーストタウン状態の真相
再開発地域は約300人の権利者が居住
麻布台ヒルズの開発地域には、約300人の権利者が暮らしていました。この地域は高台と谷地が入り組んだ高低差の大きい地形で、小規模な木造住宅やビルが密集していた特徴的な街並みでした。
開発前の地域には、瀟洒なお屋敷的な家も点在しており、決して荒廃した地域ではありませんでした。普通の昔ながらの住宅街として、多くの人々の生活の場となっていたのです。
権利者たちの中には、先祖代々の土地を持つ人々も多く、「ここで死にたい」「先祖代々の土地だから手放せない」という声も多く聞かれました。
再開発に向けた交渉は困難を極め、月1回すら会ってもらえない家もあったといいます。担当者は平日に訪問しても会えない人には週末に、昼間会えない人には夜に、粘り強く訪問を続けました。
最初は玄関先でしか話を聞いてもらえなかった人々も、徐々に玄関の中で話を聞いてくれるようになり、少しずつ理解を得ていったと言われています。
麻布郵便局跡地から高層ビル群へ変貌
麻布台ヒルズは、旧麻布郵便局の跡地を含む広大な区域に建設されました。開発前の敷地は細分化され、小規模な建物が密集していました。
この地域の再開発は都市再開発法に基づく第一種市街地再開発事業として行われ、道路や公園などのインフラ整備と共に、防犯防災面での都市機能の更新も目指されました。
我善坊谷と呼ばれたこの地域は、その名の通り谷地形で、高低差のある地形的特徴を持っていました。このような地形が、後の330メートルを超える超高層ビル群へと劇的に変貌を遂げることになります。
開発計画は1989年から始まり、2019年8月の着工を経て、2023年11月24日に開業という長い歴史を持っています。
地域の変化は劇的で、かつての住宅街の面影を残すものは、ほとんど残されていません。
森ビルによる30年以上の地権者交渉の経緯
森ビルの交渉は1989年から始まり、約35年という長期間にわたって続けられました。最初の頃は、買収に来たと勘違いされ、「うちは売らない」という冷たい反応が多かったといいます。
交渉担当者は2人1組で各戸を訪問し、共同建て替えの説明を粘り強く行いました。1988年2月には連絡事務所を開設し、常駐者を置いて地域住民からの相談に応じる体制を整えました。
さらに、同年4月からは「六本木六丁目地区だより」(通称:ろくろくだより)という地域向けの情報誌を発行し、再開発に関する情報提供を定期的に行いました。
この情報誌は毎月2回発行され、必ず各戸に手渡しで配布されました。これにより、少なくとも2週間に1回は全権利者との接点を持つことができました。
担当者たちは、買収ではなく共同建て替えであることを理解してもらうため、アークヒルズなどの事例見学も実施しました。
立ち退き後の代替住戸提供の実態
森ビルは完成後のタワーの約80%を所有し、残りの20%の中から地権者の代替物件が割り当てられました。権利者は部屋の広さや階数を選択することができました。
代替物件の価格は、再開発物件としての特別な計算方法があり、現在のアマンレジデンスの最上階の価格(約200億円)のような高額なものではありませんでした。
地権者は代替物件を購入せずに、オフィス棟の賃料をベースにした債権を購入することも選択肢としてありました。内装については、モデルルームで基本レイアウトと内装材を選ぶことができました。
レイアウトと内装は独自のものに変更することも可能で、デザイン料も100平方メートルクラスで35万円程度と、比較的リーズナブルな金額に設定されていました。
内装変更の際は、指定業者がデザインの変更にも対応し、居住者の要望に柔軟に応えられる体制が整えられていました。
地権者への買取補償と家賃補償の内容
地権者への補償は、主に買取補償と家賃補償の2種類が用意されました。買取補償額は当時の相場と再開発の特別な計算方法で算出され、中には当時の購入価格の倍近い金額で買い取られたケースもありました。
完成までの期間の家賃補償も提供され、立ち退き後にそのエリアで賃貸する場合を想定した金額が提示されました。立ち退き後の賃貸契約書の提出が求められ、実際の賃貸相場より高い物件に引っ越した場合でも、問題なく補償が受けられました。
補償金額の算定には、再開発特有の計算方法が採用され、権利者の状況に応じた柔軟な対応が行われました。森ビルは立ち退き交渉において、金銭的な補償だけでなく、代替住戸の提供など、総合的なサポートを行いました。
新しい物件の購入に関しては、銀行融資も活用可能で、法人の場合は31年の長期融資も組むことができました。個人の場合は79歳までという年齢制限がありましたが、法人であれば返済期間の制限が緩和されました。
また、法人での所有は税制上のメリットもあり、中小企業の税率(15%から23.2%)が適用されるため、個人所有よりも有利な場合がありました。
空き家化によるゴーストタウン状態の真相
再開発前にボロい空き家が多かった理由は、再開発を進める森ビルが数十年かけて一軒家やアパート、店舗などを空き家にしていったためでした。動画などで話題になった廃屋は、空き家になってから10年以上が経過したものがほとんどでした。
はじめからボロい家が多い地域ではなく、普通の昔ながらの住宅街でしたが、地上げで人がいなくなりゴーストタウン化していきました。この地域で廃墟を撮影する人が増えたのは、すでに人がいなくなった後の出来事です。
インターネット上には円満な立ち退きだったという情報も見られますが、実際には嫌がらせを含めた強引な立ち退きもあったとの証言も残されています。この過程で地域コミュニティは徐々に失われていきました。
建物の老朽化や害虫の問題なども指摘されていましたが、それは人がいなくなり管理されなくなった結果として起きた現象でした。開発前は普通に人々が暮らす住宅街だったことが、様々な証言から明らかになっています。
森ビルの再開発手法については、功罪両面があることが指摘されています。開発によって都市機能は大きく向上しましたが、同時に昔ながらの街並みや地域コミュニティが失われることになりました。
麻布台ヒルズの立ち退きで消えゆく街の記憶
- 我善坊谷の歴史ある住宅街の変遷
- 消失した3つの坂道と街並みの記録
- 再開発で姿を消した昔ながらの商店街
- 瀟洒な邸宅から廃屋までの街の変容
- 再開発による功罪と地域社会への影響
- 地権者たちの新生活と街の未来
我善坊谷の歴史ある住宅街の変遷
我善坊谷は、東西に細長く、高台と谷地が入り組んだ高低差の大きい地形を持つ地域でした。この地域は歴史ある住宅街で、江戸時代には長府藩毛利家の上屋敷があった場所です。
元禄15年(1702年)の赤穂浪士の討ち入り事件の際には、47人の浪士のうち10人が毛利家に預けられ、翌年に切腹を命じられた歴史的な場所でもありました。
嘉永2年(1849年)には、この地で明治の名将として知られる乃木希典将軍が生まれ、9歳までを過ごしたことから、東京都から毛利甲斐守邸跡と乃木大将誕生地の2つの旧跡に指定されていました。
明治以降は、中央大学の創設者増島六一郎氏からニッカウヰスキー、テレビ朝日へと所有者が移り変わり、ニッカウヰスキーの東京工場時代には敷地内にソメイヨシノが植えられ、桜の名所となっていました。
このような歴史的価値のある地域が、再開発によって大きく姿を変えることになりました。
消失した3つの坂道と街並みの記録
再開発によって、行合坂、落合坂、我善坊谷坂という3つの坂道が消失しました。これらの坂は地形的特徴を活かした街並みの重要な要素でした。
行合坂は首都高下の車道に並行した下って上る坂で、急勾配の道路環境の改善のため、嵩上げされることになりました。麻布小学校前には現在も標柱が残されています。
落合坂はエリア内で一番長く、勾配も穏やかな坂道でした。坂の途中には横川省三記念公園があり、地域の憩いの場となっていました。
我善坊谷坂は、文豪・永井荷風の『断腸亭日乗』にも「我善坊の細道」として登場し、荷風が飯倉方面に下る際によく通った道として知られていました。
この地区で唯一残されることになったのが三年坂で、「地形を継承する緑化空間の整備」の一環として保全されることになりました。ただし、現状のままでの保全ではない可能性も指摘されています。
再開発で姿を消した昔ながらの商店街
再開発前の我善坊谷には、昔ながらの商店街が存在していました。しかし、再開発の進行に伴い、これらの店舗は次々と立ち退きを迫られることになりました。
地域住民の日常生活を支えてきた商店街は、再開発による立ち退きで徐々にその機能を失っていきました。一度は活気のあった通りも、次第に人通りが減少していきました。
商店主たちの中には、代替店舗の提供を受けた人もいましたが、新しい環境での商売の継続は容易ではありませんでした。長年培ってきた顧客との関係も、立ち退きによって途切れることになりました。
再開発前の商店街の様子を記録した写真や資料からは、地域コミュニティの中心として機能していた商店街の姿を見ることができます。
このような昔ながらの商店街の消失は、単なる物理的な変化以上に、地域社会の在り方そのものの変容を象徴するものとなりました。
瀟洒な邸宅から廃屋までの街の変容
再開発前の我善坊谷には、瀟洒なお屋敷的な家が点在していました。これらの建物は、かつての上質な住宅街としての性格を示す重要な証拠でした。
しかし、再開発計画が進むにつれ、これらの邸宅は次々と空き家となっていきました。メンテナンスが行われなくなった建物は、徐々に劣化していきました。
空き家になってから10年以上が経過した建物は、管理不足により廃屋のような状態となり、インターネット上で話題を呼ぶことになりました。
地域の変容は、単なる建物の老朽化だけでなく、コミュニティの崩壊も伴っていました。長年住み続けてきた住民が去り、街全体が徐々にゴーストタウン化していきました。
この過程で、かつての高級住宅街としての雰囲気は完全に失われ、新しい都市開発を待つ遷移期の姿へと変わっていきました。
再開発による功罪と地域社会への影響
再開発は、都市インフラの整備や防災面での機能向上をもたらしました。老朽化した建物の更新や、道路・公園などの公共施設の整備は、確かに必要な変化でした。
しかし、再開発は同時に、長年にわたって形成されてきた地域コミュニティを解体することにもなりました。住民同士のつながりや、日常的な交流の場は失われていきました。
再開発後に荒廃し始めている地域が東京にはすでに存在するという指摘もあり、再開発が必ずしも地域の永続的な発展につながるとは限らないことも明らかになっています。
法律が変わらなくても都心の再開発は進む一方ですが、何でもかんでも再開発すればいいというものではないという認識も広がっています。
再開発には明確な功罪があり、地域社会への影響を慎重に検討する必要性が指摘されています。
地権者たちの新生活と街の未来
地権者たちには、再開発後の新しい生活への移行に向けて、様々な選択肢が提供されました。代替住戸の取得や、オフィス棟の賃料をベースにした債権の購入など、複数の選択肢の中から自身の状況に合わせた選択が可能でした。
新しい住戸では、内装のカスタマイズや間取りの変更など、細かな要望にも対応できる体制が整えられました。これにより、従前の生活スタイルをある程度維持することも可能となりました。
森ビルの物件所有者には、アークヒルズクラブや六本木ヒルズクラブなどの会員制施設の特別入会プランが提供され、新たなコミュニティへの参加機会も用意されました。
居住者限定イベントや、音楽、シネマ、アート、ゴルフなどの文化的活動への参加機会も提供され、新しいライフスタイルの構築が図られました。
地権者として物件を所有することは、将来的な資産価値の面でもメリットがあると考えられ、賃貸による安定的な収入も期待できる状況となっています。
まとめ:麻布台ヒルズの立ち退きから見る都市再開発の光と影
最後に記事のポイントをまとめます。
- 再開発地域には約300人の権利者が存在し、35年という長期にわたる交渉が行われた
- 元々は昔ながらの住宅街で、瀟洒な邸宅も点在する良好な住環境だった
- 森ビルは毎月2回の情報誌発行や常駐事務所の設置など、きめ細かな交渉を実施
- 地権者への補償は、買取補償と家賃補償の2種類が基本として提供された
- 代替住戸は完成後のタワーの約20%から提供され、階数や広さを選択可能だった
- 我善坊谷、行合坂、落合坂など、歴史ある地形や街並みが消失した
- 再開発による立ち退きで地域は徐々にゴーストタウン化していった
- 円満な立ち退きばかりではなく、強引な手法も使われたという証言が残されている
- 再開発後の物件所有者には、会員制施設の利用など様々な特典が提供された
- 都市機能は向上したが、長年培われた地域コミュニティは失われることになった
- 再開発には明確な功罪があり、慎重な検討が必要であることが明らかになった
- 法人での物件所有には、税制面での優遇や長期融資などのメリットがある