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フェアモントホテル 千鳥ヶ淵の現在地はどこ?🌸 跡地に建つ超高級マンションの正体とホテルの復活秘話

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千鳥ヶ淵の桜並木が華やかに咲き誇る風景を眺めながら紅茶を楽しめる—そんな東京の隠れた名所として長年愛されてきたフェアモントホテル千鳥ヶ淵。1951年にGHQの要請で開業し、2002年に惜しまれながらも閉館したこのクラシックホテルは、今や多くの人の記憶の中だけに存在しています。松任谷由実の名曲「経る時」にも登場する「うす紅の砂時計の底」と例えられた桜吹雪の景色を堪能できる特別な場所として、ホテルは多くの人々の心に残り続けています。

現在、その跡地には「パークマンション千鳥ヶ淵」という超高級マンションが建ち、往時の面影を感じさせています。このマンションは「日本が誇れる最高グレードのマンション」というコンセプトで三井不動産によって開発され、一部の部屋は10億円を超える価格で取引されるという贅沢な住まいとなっています。一方で、フェアモントブランド自体は日本から消えたわけではなく、2025年7月には「フェアモントホテル東京」として芝浦エリアに日本初の公式ホテルが開業予定です。このブログでは、かつての千鳥ヶ淵のフェアモントホテルの歴史から現在の姿、そして新たなフェアモントホテルの展開まで、詳しくご紹介します。

記事のポイント!

  1. フェアモントホテル千鳥ヶ淵の歴史と閉館までの経緯について理解できる
  2. 松任谷由実の楽曲「経る時」の舞台となったティールームの魅力について知ることができる
  3. 跡地に建設された超高級マンション「パークマンション千鳥ヶ淵」の特徴と現状を把握できる
  4. 日本初となる公式「フェアモントホテル東京」の開業予定と今後の展開について理解できる

フェアモントホテル 千鳥ヶ淵の歴史と役割

  1. 1951年にGHQの要請で開業したフェアモントホテルの背景
  2. 千鳥ヶ淵において愛された高級クラシックホテルの特徴
  3. 松任谷由実の楽曲「経る時」に登場するティールームの魅力
  4. 毎年春に出していた「千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました」の広告が話題に
  5. 桜シーズンに訪れる人々を魅了した千鳥ヶ淵の絶景ポイント
  6. 2002年に惜しまれながら老朽化により閉館した経緯

1951年にGHQの要請で開業したフェアモントホテルの背景

フェアモントホテル千鳥ヶ淵は、第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)に開業しました。当時、日本はまだ連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の統治下にあり、国際基準を満たす宿泊施設が極めて少ない状況でした。そのため、増加する外国人訪問者に対応するための施設として、GHQの要請によってこのホテルが設立されたのです。

立地は非常に象徴的で、千鳥ヶ淵という風光明媚な場所が選ばれました。東京・九段下エリアに位置し、皇居のお堀に近い桜の名所として知られる場所です。この立地は、外国人ゲストに日本の美しい景観を紹介する絶好の場所でもありました。

ホテルの設計は、当初から外国人宿泊客向けに考えられており、客室のデザインやホテル内装も海外の訪問者に合わせたクラシックなスタイルが特徴的でした。また、スタッフのホスピタリティ教育も徹底され、国際的な基準でのサービスが提供されていました。

1960年代には東京オリンピックを控え、施設の増築や改装も行われました。資料によれば「1962年に本館南側半分を取り壊して6階建てのビルを建設、その完成後に北半分を増築」して対応したようです。1972年(昭和47年)には207室を擁するホテルへと成長していました。

興味深い点として、フェアモントホテル千鳥ヶ淵の運営主体は「小松ストアー」という会社でした。この会社は銀座5丁目に「銀座コマツ」というファッションビルを持つ企業で、もともとは百貨店が本業だったとされています。百貨店業を主としながら、副業としてこのホテルを経営していたというユニークな背景があったのです。

千鳥ヶ淵において愛された高級クラシックホテルの特徴

フェアモントホテル千鳥ヶ淵は、格式高いクラシックホテルとして多くの人々に親しまれました。その最大の特徴は、他にはない立地の良さと、周囲の自然環境との調和でした。東京の中心部にありながら、千鳥ヶ淵のお堀沿いという静かな場所に位置していたため、訪れる人々にとって特別な時間を過ごせる、まさに都会のオアシスとなっていました。

歴史ある建物のデザインは、温かみと重厚感が漂う雰囲気を醸し出していました。現代の高層ホテルとは異なり、より人間的なスケールで設計されていたことも、訪れる人々に安らぎと贅沢なひとときを提供する要因となっていたでしょう。ロビーは洗練された空間でありながらも、どこか懐かしさを感じさせるデザインだったといいます。

館内には「ブラスリー・ドゥ・ラ・ヴェルデュール」という名前のティールームがあり、窓越しに千鳥ヶ淵の景色を望むことができました。このティールームは、ホテルの象徴的な場所として多くの人に愛されていました。特に桜の季節には、窓から見える千鳥ヶ淵の桜並木が絶景で、多くの人が訪れる人気スポットとなっていました。

フェアモントホテルの高品質なサービスも特筆すべき点です。国際的な水準のホスピタリティと、日本ならではの細やかなおもてなしが融合したサービスは、国内外の宿泊客に高く評価されていました。スタッフの多くは長年にわたってホテルに勤め、リピーターとなる顧客との信頼関係を築いていたといわれています。

建物の内外の装飾や設備は、伝統的な要素と当時のモダンな要素が融合したデザインとなっていました。こうした伝統と革新のバランスが、時代を超えて愛され続ける理由だったといえるでしょう。フェアモントホテルはただの宿泊施設ではなく、千鳥ヶ淵エリアのランドマークとして、また地域の文化や歴史を伝える存在として、多くの人々の記憶に刻まれています。

松任谷由実の楽曲「経る時」に登場するティールームの魅力

松任谷由実の楽曲「経る時」に登場するティールームの魅力

フェアモントホテル千鳥ヶ淵の名は、日本を代表するシンガーソングライター松任谷由実(ユーミン)の楽曲「経(ふ)る時」によっても広く知られるようになりました。この曲は、彼女の1983年のアルバム「REINCARNATION」に収録されており、千鳥ヶ淵の美しい桜と、ホテル内の「ブラスリー・ドゥ・ラ・ヴェルデュール」というティールームでの静かなひとときを描写しています。

「経る時」の歌詞には、「窓ぎわでは老夫婦が ふくらみ出した蕾をながめてる」「二度と来ない人のことを ずっと待ってる気がするティールーム 水辺に散る桜を見に さびれたこのホテルまで」などの一節があります。特に「4月ごとに 同じ席は うす紅の砂時計の底になる」というフレーズは、桜吹雪のように舞い散る花びらがあたかもピンク色の砂時計のようだと表現した、ユーミンの代表的な歌詞のひとつとなっています。

ティールームからは、千鳥ヶ淵の水面と桜並木が一望でき、特に春の桜の季節には絶景でした。窓際の席に座ると、まるで絵画のような風景が広がり、時間がゆっくりと流れているような感覚を味わうことができました。コーヒーや紅茶とともに、季節のケーキやサンドイッチなどの軽食も提供され、都会の喧騒を忘れさせる静かな空間として多くの人に愛されていました。

「ブラスリー・ドゥ・ラ・ヴェルデュール」の名前は、フランス語で「緑の景色のブラッスリー(レストラン)」といった意味合いと考えられます。四季折々の景色が楽しめる場所でしたが、特に桜の季節には特別な場所として人気を集めました。ユーミンがこの曲を作曲した背景には、おそらく新聞に掲載されていた桜の開花を知らせる広告を見て訪れたという可能性も考えられます。

ファンの間では「隠れた名曲」として今でも愛されているこの曲により、フェアモントホテルと千鳥ヶ淵の風景は、音楽を通じて多くの人々の心に残り続けています。ホテルが閉館した現在でも、春になると「経る時」の歌詞を思い出しながら千鳥ヶ淵を訪れる松任谷由実ファンは少なくありません。歌の中に描かれた風景が、実際の場所と重なり合う体験は、音楽ファンにとって特別な意味を持つものとなっています。

毎年春に出していた「千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました」の広告が話題に

フェアモントホテル千鳥ヶ淵は、桜の季節になると独自の広告を出していたことでも知られています。1980年(昭和55年)から閉館する2002年(平成14年)までの間、毎年春になると「千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました Fairmont Hotel」という短い文章だけの小さな広告を、新聞の社会面に掲載していました。この質素でありながら情緒あふれる広告は、春の訪れを告げる風物詩として多くの人々に親しまれていました。

この広告はシンプルでありながら強い印象を与えるもので、桜の季節を楽しみにしている人々にとっては、見逃せない情報源となっていました。朝日新聞にのみ掲載されていたとされるこの広告を見て、フェアモントホテルを訪れる人も少なくなかったようです。松任谷由実もこの広告をきっかけにホテルを訪れ、後に「経る時」の楽曲を生み出すインスピレーションを得た可能性もあるでしょう。

興味深いことに、ホテルが閉館した後も、この広告の伝統は続きました。千代田区がスポンサーとなり、同じ文言とレイアウトで広告を掲載していたのです。書体が微妙に異なっていたものの、内容やデザインはそっくりそのまま引き継がれていました。これは千代田区の粋な計らいとして、多くの人に喝采を送られました。文化や伝統を大切にする姿勢が表れた素晴らしい取り組みだったといえるでしょう。

しかし残念なことに、千代田区による広告も、いつの間にか見かけなくなってしまったようです。現在では、SNSやウェブサイトなど、桜の開花情報を得る手段が多様化したこともあり、新聞広告という形での情報発信は減少しているのかもしれません。それでも、「千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました」という短いフレーズには、季節の移ろいを感じさせる詩情があり、多くの人の記憶に残り続けています。

この小さな広告は、ホテルの宣伝というよりも、季節の便りとして機能していました。商業的な要素を前面に出さず、桜という日本文化の象徴を通じて人々とつながろうとしたフェアモントホテルの姿勢は、現代のマーケティング手法にも示唆を与えるものがあります。ときに物静かで控えめなメッセージこそが、人々の心に深く響くことがあるという教訓を、この広告は私たちに残してくれているのではないでしょうか。

桜シーズンに訪れる人々を魅了した千鳥ヶ淵の絶景ポイント

フェアモントホテル千鳥ヶ淵が特に人気を集めたのは、桜のシーズンでした。千鳥ヶ淵沿いの立地から、ホテルの窓やティールームからは満開の桜を間近に楽しむことができ、花見のシーズンには格別の眺望が広がっていました。桜が舞い散る姿は、松任谷由実が表現したように「ピンク色の砂時計」のようにも見え、訪れた人々にとって忘れられない情景となっていました。

桜の季節には、ホテルのスタッフが花見客のためにお茶を振る舞うといった温かいおもてなしも提供されていました。ホテルの前に特設のテーブルを出し、訪れた人々をもてなすという心温まる取り組みは、多くの人に喜ばれていたようです。さらに、桜の時期に合わせて特別なメニューやプランを用意するなど、季節を楽しむための工夫が凝らされていました。

千鳥ヶ淵は東京屈指の桜の名所として知られていますが、フェアモントホテルがあった場所は特に素晴らしい眺めが広がっていました。お堀に沿って続く桜並木が水面に映り込む様子は、まさに絵画のようだったと言われています。現在でも千鳥ヶ淵は桜の季節になると多くの人で賑わいますが、かつてはホテルのティールームから静かにその景色を堪能することができたのです。

千鳥ヶ淵の桜は、通常3月下旬から4月上旬にかけて見頃を迎えます。フェアモントホテルでは、その最も美しい時期に合わせて様々なイベントや企画を実施していたといいます。ホテルの窓からは、昼間の輝く桜はもちろん、夜にはライトアップされた夜桜も楽しむことができ、一日を通して異なる表情の桜を楽しむことができました。

現在、フェアモントホテルはなくなってしまいましたが、千鳥ヶ淵の桜の美しさは今も健在です。毎年春になると、ホテルがあった場所周辺から桜並木が続く風景を求めて、国内外から観光客が訪れます。かつてフェアモントホテルでのんびりと桜を愛でていた時代と比べると、少し喧騒が増したかもしれませんが、千鳥ヶ淵の桜の美しさは、今も昔も変わらず多くの人々の心を魅了し続けています。

2002年に惜しまれながら老朽化により閉館した経緯

2002年に惜しまれながら老朽化により閉館した経緯

フェアモントホテル千鳥ヶ淵は、2002年(平成14年)1月27日に、長い歴史に幕を閉じました。閉館の主な理由は施設の老朽化でした。1951年の開業から半世紀以上が経過し、建物自体の維持が困難になってきたことが大きな要因だったと考えられます。当時のホテル業界は、より現代的な設備を備えた新しいホテルが次々とオープンする時代であり、古い施設を大規模に改装するよりも、新たに建て替えるという選択肢が一般的でした。

閉館が決まったときは、多くの常連客や地元の人々から惜しむ声が上がりました。特に、長年ホテルを利用してきた顧客や、松任谷由実の「経る時」の舞台として知る音楽ファンなどからは、閉館を惜しむ声が多く聞かれました。歴史ある建物が消えゆくことへの寂しさは、単なる宿泊施設以上の存在としてホテルが愛されていたことを示しています。

閉館前の最後の営業日には、多くの人がホテルを訪れたといいます。最後にティールームでお茶を飲んだり、思い出の場所として写真を撮ったりする人々の姿が見られました。フェアモントホテルの従業員たちも、長年勤めてきた職場との別れを惜しみながらも、最後まで丁寧なサービスを提供していたそうです。

ホテルの閉館後、その跡地の利用については様々な検討がなされました。土地の価値が高い場所であることから、いくつかの開発プランが提案されたといいます。最終的に、三井不動産による高級マンション「パークマンション千鳥ヶ淵」の建設が決まり、2004年に竣工しました。このマンションは、フェアモントホテルが持っていた千鳥ヶ淵の眺望や立地の良さを継承しつつ、より現代的な住空間として生まれ変わりました。

フェアモントホテル千鳥ヶ淵の閉館は、一つの時代の終わりを意味していました。戦後の復興期から高度経済成長期、そしてバブル経済とその崩壊といった日本の変遷を見届けてきたホテルの幕引きは、多くの人にとって感慨深いものだったでしょう。現在は建物こそなくなりましたが、人々の記憶の中で、また松任谷由実の楽曲を通じて、フェアモントホテル千鳥ヶ淵の魅力は今も生き続けています。

フェアモントホテル 千鳥ヶ淵の跡地と現在の展開

  1. パークマンション千鳥ヶ淵として生まれ変わった超高級マンションの概要
  2. 三井不動産が手掛けた「日本が誇れる最高グレードのマンション」というコンセプト
  3. 天井高3.5m~3.9mを誇る贅沢な空間設計と特徴的な内装
  4. 有名人も住むと言われる千鳥ヶ淵マンションの価格と評判
  5. 日本初のフェアモントホテル東京が2025年7月に芝浦で開業予定
  6. 世界的なラグジュアリーホテルブランドとしてのフェアモントの評価と歴史
  7. まとめ:フェアモントホテル 千鳥ヶ淵の遺産と新たなる展開

パークマンション千鳥ヶ淵として生まれ変わった超高級マンションの概要

フェアモントホテル千鳥ヶ淵の閉館後、その跡地に建設されたのが「パークマンション千鳥ヶ淵」です。2004年(平成16年)4月に竣工したこの高級マンションは、千鳥ヶ淵の景観を活かした現代的な住宅として、かつてのホテルの面影を残しつつ新たな形で生まれ変わりました。

建物の基本情報としては、鉄筋コンクリート造の地上15階・地下2階建てとなっています。総戸数は64戸と、比較的少ない戸数で構成されており、1戸あたりの専有面積もゆとりあるものになっています。専有面積は最小が53.4㎡から最大で335.1㎡まで、様々なタイプの住戸が用意されていますが、特に120㎡~160㎡を中心とした広めの住戸が多く設定されています。

交通アクセスとしては、東京メトロ半蔵門線・東西線・都営地下鉄新宿線の「九段下」駅から徒歩8分という好立地です。都心にありながら緑豊かな環境に恵まれているという、稀有な立地条件を持っています。この立地は、かつてのフェアモントホテルと同様に、千鳥ヶ淵の景観を最大限に活かすことができる場所です。

施工は鹿島建設株式会社が担当し、設計には日本建築学会賞など数多くの受賞実績を持つ建築家・内藤廣氏が監修として参加しました。内藤氏は新国立競技場の設計競技の最終候補にも残った実力派の建築家であり、その参加は建物のクオリティの高さを示すものとなっています。

パークマンション千鳥ヶ淵の特徴として、大型ピクチャーウインドウズを採用していることが挙げられます。これにより、春に咲き誇る華麗な桜や千鳥ヶ淵の青々とした景色を贅沢に堪能できるようになっています。かつてのフェアモントホテルのティールームから見えた景色を、住居として日常的に楽しめるようになったわけです。まさに「水辺のプライベートレジデンス」という言葉がぴったりの住環境を実現しています。

三井不動産が手掛けた「日本が誇れる最高グレードのマンション」というコンセプト

三井不動産が手掛けた「日本が誇れる最高グレードのマンション」というコンセプト

パークマンション千鳥ヶ淵の開発を手掛けたのは、日本を代表するデベロッパーである三井不動産株式会社です。三井不動産は、この物件の企画にあたり「日本が誇れる日本で最高グレードのマンション」というコンセプトを掲げました。これは単に高級というだけでなく、日本の建築技術や美意識を結集し、国際的に見ても誇れる品質の住まいを実現するという意欲的な目標でした。

2003年5月に発表されたニュースリリースによると、商品企画にあたっては「東京の中心にありながら深い緑に囲まれた稀少性の高い立地に、『日本が誇れるマンション』をコンセプトに、ハード面・ソフト面において最高レベルを極めることを目指した」とあります。このコンセプトは、デザイン、機能性、サービスなど、あらゆる面で最高水準を追求するという姿勢の表れでした。

特に注目すべきは、「現代の『匠』の技」を積極的に取り入れたことです。共用部においては、「石匠」、「左官職人」、「漆工」など、一流の職人による仕上げを施しました。具体的には、瀬戸内海大島産の御影石を使用し、一枚岩を重ねた石舞台のような作りのメインエントランスや、土を突き固めて地層状に造り上げる版築壁と築地壁を採用したロビー、そして鮮やかな朱が印象的な漆塗りの羽目板を施したエレベーターホールなど、日本の伝統技術と現代の建築技術が融合した空間づくりがなされています。

この物件の開発にあたっては、「若手の建築家・デザイナーの発掘」「お客様・デベロッパーと、これら建築家・デザイナーとの新しい関係」を探る機会としても位置づけられました。新建築社と共催で実施した「第1回住空間デザインコンペ」(応募作品416点)を開催し、最優秀受賞作品であった廣田敬一氏(廣田デザイン事務所)監修のモデルルームを公開するなど、新しい試みも行われました。

三井不動産のニュースリリースによれば、一般の販売に先立ち、2003年3月中旬より一部先行して販売活動を実施したところ、すでに37戸について購入予定者が決定していたといいます。これは、このコンセプトが市場から高く評価されていたことを示すものでしょう。高級マンションの分野で三井不動産が培ってきたブランド力と、このプロジェクトに込めた特別な思いが、多くの購入者の共感を呼んだと考えられます。

天井高3.5m~3.9mを誇る贅沢な空間設計と特徴的な内装

パークマンション千鳥ヶ淵の最も特筆すべき特徴の一つが、その圧倒的な天井高です。一般的なマンションの天井高が2.4m~2.6m程度であるのに対し、このマンションでは3.5m~3.9mという驚異的な高さを実現しています。さらにリビングの天井高は約2.7m~3mに設定されており、まるで高級ホテルのスイートルームのような開放感あふれる空間となっています。

この贅沢な天井高は、住居空間に豊かなゆとりと開放感をもたらすだけでなく、千鳥ヶ淵の景色を大きな窓を通して存分に楽しむための工夫でもあります。特に桜の季節には、高い天井と大きな窓によって、満開の桜並木を室内にいながらにして堪能することができる設計になっています。

内装にも特別なこだわりが見られます。例えば、各住戸には千鳥ヶ淵公園が望めるユーティリティバルコニーが設けられているほか、ワインセラーが常設されているなど、贅沢なライフスタイルを支える設備が充実しています。また、バスルームには円形バスタブが導入されていることも特徴的です。近年は超高級マンションでもユニットバスやセミユニットバスが主流となっていますが、あえて円形バスタブというこだわりを持たせることで、より上質な住空間を実現しています。

マンションの間取りも特徴的です。全室通じる内廊下がゆとりをもって設計され、間取りも単なる四角形ではなく、変形した仕様となっています。一般的なマンションでは経済合理性を優先して、コストをかけずに居室の広さを確保するために長方形の居室や間取りが採用されることが多いですが、パークマンション千鳥ヶ淵では複雑な矩形の間取りを採用しています。これには設計者の強いこだわりが感じられ、空間に遊びとゆとりをもたらしています。

共用部の内装にも、ホテルのような高級感があふれています。先述のとおり、ロビーやエントランスには伝統工芸の技術を取り入れた仕上げが施されており、「石」「土」「漆」といった自然素材を用いた一流職人による特別な空間が広がっています。これらの素材は時間とともに風合いが増していくため、竣工から20年近く経った現在でも、その美しさは衰えることなく、むしろ深みを増しているのではないでしょうか。

有名人も住むと言われる千鳥ヶ淵マンションの価格と評判

パークマンション千鳥ヶ淵は、その立地の良さや設備の充実度から、数々の著名人が住居として選んできたとされています。情報によると、読売巨人軍のオーナーとして知られる渡辺恒雄氏や、全盛期の小室哲哉氏などが居住していたとの噂があります。こうした著名人が選ぶことからも、このマンションの価値の高さがうかがえます。

価格面では、2003年の販売開始時には1億6200万円~13億5000万円(最多販売価格帯は4億4000万円台)という設定でした。東京カンテイの資料によれば、当時の価格で1戸あたりの平均価格が3億2962万円という超一級マンションだったことがわかります。中でも上層階の大型住戸は、1戸10億円を超える価格で取引されたといわれています。

このマンションはその後も高い資産価値を維持していると考えられます。LIFULL HOME’Sの不動産アーカイブによると、2017年12月から2022年2月までの間に確認された賃貸情報では、月額賃料が85万円から175万円の範囲で推移しています。これは都心の超高級マンションとしては相応の水準といえるでしょう。

物件の評判も非常に高く、ネット上の口コミなどでは「千鳥ヶ淵を見渡せる景観の素晴らしさ」や「共用部の高級感」などが高く評価されています。また、立地に関しても「東京メトロ半蔵門線、東西線が乗り入れている九段下駅に近く、とても便利。駅周辺には、区役所・税務署・法務局あり、所々手続きをする上で短時間で済む」などの声が見られます。

興味深いのは、パークマンション千鳥ヶ淵の購入層です。三井不動産の発表した事前来場者特性によると、居住地は港区が33%、千代田区が11%、世田谷区が11%、その他23区が34%となっています。年齢層は50歳台が33%、40歳台が23%、60歳台が18%と、比較的年齢層の高い人たちを中心に関心を集めていたことがわかります。また、家族数は2人世帯が36%と最も多く、3人世帯が24%、4人世帯が21%と続いており、ファミリー層にも人気があったといえるでしょう。

このマンションの価値は、単に高級な設備や広い部屋だけでなく、千鳥ヶ淵という特別な場所に位置することによる希少性にも大きく依存しています。都心でありながら豊かな自然に囲まれ、歴史と文化が息づく環境は、お金だけでは手に入れることのできない価値を持っており、それがこのマンションの評価を長期にわたって高く保っていると考えられます。

日本初のフェアモントホテル東京が2025年7月に芝浦で開業予定

フェアモントホテル千鳥ヶ淵は閉館してしまいましたが、「フェアモント」の名を冠したホテルが日本に再び登場する計画が進んでいます。2025年7月1日(火)、東京都港区芝浦・浜松町エリアに誕生する「ブルーフロント芝浦(BLUE FRONT SHIBAURA)」に、「フェアモントホテル東京」が開業する予定です。これは、ラグジュアリーホテルブランド「フェアモント」の日本初進出となります。

フェアモントホテル東京は、アコーグループにとって国内初のラグジュアリーホテルとなります。東京港から東京都心までのパノラマビューが広がる上層階に展開し、スイートを含む全219室のゲストルームを備える予定です。また、3つのレストランとバー、スパ、フィットネスセンター、プール、バンケット、カンファレンス、チャペルなども設置される計画です。

このホテルの総支配人には、アジア太平洋地域で長年リーダーシップを発揮してきたカラン・シン氏が就任予定とされています。シン氏の豊富な経験と情熱が、フェアモントホテル東京の成功を支える大きな役割を担うことが期待されています。シン氏の指導のもと、日本におけるフェアモントの新しいスタンダードが構築され、国際的な水準のサービスと日本独自のホスピタリティを融合させた特別な体験が提供される予定です。

「芝浦プロジェクト」と呼ばれるこの再開発計画は、東芝本社があるエリアで進められているもので、複合ビルの高層階に外資系のホテルが入る形となります。このプロジェクトは、東京の新たなランドマークとなることが期待されており、フェアモントホテルはその象徴的な存在となるでしょう。

かつての千鳥ヶ淵のフェアモントホテルとは異なり、新しいフェアモントホテル東京は公式にフェアモントブランドを冠した正式な施設となります。千鳥ヶ淵のフェアモントホテルは、実はカナダのラグジュアリーホテルブランド「フェアモント」とは関係がなかったという説もあります。日本語表記も「フェヤーモントホテル」と若干異なっていました。しかし、新たに開業するフェアモントホテル東京は、世界的なフェアモントブランドの一員として、本物のラグジュアリーホテル体験を提供することになります。

開業に向けては、現在すでにスタッフの採用が進められています。高品質なホスピタリティを提供するために、経験豊富な人材を求めており、人事、経理、営業、スパ管理など多岐にわたる職種の求人が行われています。世界的なブランドで働きたいと考える人にとっては、キャリアの大きなチャンスとなるでしょう。

世界的なラグジュアリーホテルブランドとしてのフェアモントの評価と歴史

フェアモントは、世界中で高い評価を受けているラグジュアリーホテルブランドです。その始まりは1907年にサンフランシスコで開業した「ザ・フェアモント」から遡ります。以来、北米を中心にヨーロッパやアジアに展開し、現在では「フェアモント・バンフ・スプリングス」や「フェアモント・ル・シャトー・フロントナック」など、歴史的価値の高いホテルも多数所有しています。

フェアモントホテルの特徴は、各地の文化や自然環境に敬意を払い、それぞれの立地に合わせた個性的なホテル作りを行っている点です。地域ごとに異なる建築デザインやインテリアの個性を尊重することで、訪れる人々にその土地ならではの体験を提供するというのがフェアモントブランドの強みとされています。また、高品質なサービスも世界中の宿泊客から高く評価されており、「ザ・リーディングホテルズ・オブ・ザ・ワールド」など、国際的なホテル団体の一員としても認められています。

環境保護活動や地域社会への貢献にも積極的に取り組んでおり、カナダのホテルブランドおよびホスピタリティ企業の中でいち早く世界自然保護基金の「クライメート・セイバーズ・プログラム」の目標を達成したことでも知られています。2006年には、営業活動における二酸化炭素排出量を20%削減することを約束し、これを実現しました。こうした持続可能な開発への姿勢が、フェアモントブランドの信頼と評判を築く要素となっています。

現在、フェアモントホテルは世界中に80以上の施設を展開しており、2018年にはAccorHotels(現:アコー)グループの一員となりました。アコーは世界最大級のホスピタリティグループの一つで、この統合によりフェアモントブランドはさらなる国際展開を進めています。日本への進出もこうした世界戦略の一環であり、アジア太平洋地域における重要な拠点として位置づけられています。

興味深いことに、千鳥ヶ淵にあった「フェヤーモントホテル」と、世界的なブランドである「フェアモント」との関係性は不明確な部分があります。少なくとも公式には、千鳥ヶ淵のホテルはフェアモントチェーンの一部だったとは記録されていないようです。名前の類似性はあるものの、実際の関連性については確かな情報がありません。一方、2025年に開業予定の芝浦の「フェアモントホテル東京」は、正式にフェアモントブランドの一員として開業する予定です。

フェアモントブランドは「素晴らしい場所での素晴らしい時間」をモットーに掲げており、新しいフェアモントホテル東京でも、このブランド理念に基づいた質の高いサービスと施設が提供されることでしょう。世界各地で築き上げてきた実績と評判をもとに、日本でも独自のホスピタリティを展開していくことが期待されています。

まとめ:フェアモントホテル 千鳥ヶ淵の遺産と新たなる展開

最後に記事のポイントをまとめます。

  1. フェアモントホテル千鳥ヶ淵は1951年にGHQの要請で開業し、2002年まで営業した歴史あるホテルである
  2. 千鳥ヶ淵の桜並木に面した立地を活かし、特に桜の季節には多くの訪問客で賑わった
  3. 「ブラスリー・ドゥ・ラ・ヴェルデュール」というティールームが松任谷由実の楽曲「経る時」のモチーフとなった
  4. 毎年桜の季節になると「千鳥ヶ淵の桜が咲きはじめました」という小さな新聞広告を出していた
  5. ホテル閉館後も千代田区がその広告を引き継ぎ、文化の継承に努めた
  6. 2004年にホテル跡地には「パークマンション千鳥ヶ淵」という超高級マンションが建設された
  7. このマンションは三井不動産が「日本が誇れる最高グレードのマンション」というコンセプトで開発した
  8. 天井高3.5m~3.9mという贅沢な空間設計や内装の高級感などが特徴的である
  9. 渡辺恒雄氏や小室哲哉氏など著名人も住んでいたとされ、最上級の住居として評価が高い
  10. 1戸あたりの平均価格は3億円以上で、上層階の大型住戸は10億円を超える価格で取引された
  11. 2025年7月には芝浦エリアに公式の「フェアモントホテル東京」が開業予定である
  12. フェアモントは世界的なラグジュアリーホテルブランドで、環境保護活動にも積極的に取り組んでいる
  13. 千鳥ヶ淵のフェアモントホテルは今はないが、松任谷由実の楽曲や人々の記憶の中に生き続けている