横浜市磯子区に1954年から2006年まで存在した磯子プリンスホテル(横浜プリンスホテル)は、多くの人の記憶に残る横浜のランドマークでした。高台にそびえ立つ白亜の建物は、その歴史と格式から地元住民や観光客に長く親しまれていました。しかし、様々な理由が重なり、2006年に惜しまれながら閉館となりました。
この記事では、磯子プリンスホテルの歴史的背景から閉館に至った理由、そして跡地に建設された「ブリリアシティ横浜磯子」という大規模マンションの現在の姿まで詳しく解説します。また、旧東伏見宮邸である「貴賓館」がなぜ今も残されているのか、その歴史的価値と活用方法についても触れていきます。磯子プリンスホテルに関する情報を求めている方々の疑問にお答えします。
記事のポイント!
- 磯子プリンスホテルの歴史と閉館に至った背景について
- 跡地に建設されたブリリアシティ横浜磯子の特徴と魅力
- 歴史的建造物として保存されている貴賓館について
- 磯子プリンスホテル周辺地域の過去と現在の変化
磯子プリンスホテルの歴史と閉館理由の真相
- 磯子プリンスホテルは東伏見邦英伯爵の別邸がルーツ
- 磯子プリンスホテルは1954年から2006年まで営業していた
- 横浜プリンスホテルが閉館した理由は経営状況の悪化
- 磯子プリンスホテルは西武グループの再編で売却された
- 閉館前には「50年アリガトウ」の感動的なメッセージが掲げられた
- プリンスホテルの名前の由来は皇族の別邸から生まれた
磯子プリンスホテルは東伏見邦英伯爵の別邸がルーツ
磯子プリンスホテルの歴史は、1937年(昭和12年)に建てられた東伏見邦英伯爵の別邸にまで遡ります。東伏見邦英伯爵は久邇宮家から臣籍降下した人物で、昭和天皇の義弟にあたる皇族でした。当時の価値で100万円もの巨費を投じて建設されたこの別邸は、緩やかな傾斜の屋根とひさしが幾重にも重なる特徴的な外観を持ち、日本古来の伝統的風情を漂わせていました。
この建物は日本の伝統的な様式を持ちながらも、鉄筋コンクリート造という近代的な構造を採用していました。外観は和風である一方、内部は洋風の造りとなっており、当時の貴族の洗練された趣味と国際的な感覚がうかがえる建築物でした。特に2階から3階の階段部分は吹き抜けとなっており、天井に星形の模様が施されるなど、細部にわたる豪華な装飾が特徴でした。
第二次世界大戦後、この建物は1945年から1947年にかけて終戦連絡事務局長官の鈴木九万の官邸として使用され、その後はGHQやフランス使節団も使用しました。日本の近代史において重要な役割を果たした建物であり、戦後の日本の復興期を象徴する場所の一つとなっています。
1953年にこの別邸を西武グループの創始者である堤康次郎が買収し、翌1954年に「横浜プリンス会館」として食堂7室・客室4室の小規模な宿泊施設としてオープンしました。これが後の磯子プリンスホテル(横浜プリンスホテル)の始まりです。堤康次郎は戦後、皇族の土地を購入してホテル事業を展開しており、これが「プリンス」の名前の由来となっています。
三島由紀夫の小説『春の雪』に登場する「洞院宮御別邸」のモデルともいわれており、文学的な価値も持つ建物でした。その後、別館の増築や施設の拡充を経て、磯子の高台に位置する横浜のランドマークとして発展していきました。
磯子プリンスホテルは1954年から2006年まで営業していた
磯子プリンスホテル(正式名称は横浜プリンスホテル)は、1954年に「横浜プリンス会館」として開業し、半世紀以上にわたって横浜の高級ホテルとして愛されてきました。開業当初は東伏見邦英伯爵の別邸を改装した小規模な施設でしたが、1960年には新館が増設され、本格的なホテルとして徐々に規模を拡大していきました。
1960年代から1970年代にかけて、横浜プリンスホテルは地域の社交場として発展し、結婚式場や高級レストランを備えた総合的なホテルへと成長しました。1990年には建物全体の建て替えが行われ、村野・森建築事務所の設計、大林組の施工により、モダンで洗練された新しいホテルが誕生しました。この建物は建築業界でも高く評価され、1991年には日本建設業連合会BCS賞を受賞しています。
新しい横浜プリンスホテルは地上15階建て、客室総数441室を誇る大型ホテルとなり、レストランや宴会場も充実した施設となりました。特に旧東伏見邦英伯爵別邸は「貴賓館」と名を変え、特別な宴会場として活用されました。1993年には横浜市によって歴史的建造物に認定され、その文化的価値が公式に認められています。
2002年のFIFAワールドカップ日韓共催時には、日本、ブラジル、エクアドルの代表チームが宿泊する国際的なホテルとして使用され、名声を高めました。また同年には水泳のパンパシフィック大会の選手村としても利用され、北島康介やイアン・ソープなど世界的な選手たちが滞在しました。横浜プリンスホテルは、国際的なイベントの舞台として横浜の国際化にも貢献したのです。
しかし、長い歴史を誇った横浜プリンスホテルも2006年6月30日に営業を終了することになりました。最終日には多くのファンや関係者が訪れ、別れを惜しみました。特に印象的だったのは、133の客室の窓明かりで描かれた「50年アリガトウ」のメッセージで、このホテルが地元横浜の人々にとって、単なる宿泊施設以上の存在だったことを物語っています。
横浜プリンスホテルが閉館した理由は経営状況の悪化
横浜プリンスホテル(磯子プリンスホテル)が閉館に至った背景には、いくつかの重要な要因がありました。最も大きな理由は、西武グループ全体の経営状況の悪化です。2004年に西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題が発覚し、堤義明会長(当時)が失脚するという事態が起こりました。この不祥事を契機に西武グループは経営再建を余儀なくされ、2006年前半(2005年度末)に西武ホールディングスの下でグループ再編を行いました。
再編の一環として、不採算施設については順次、営業終了もしくは不動産と運営権を売却する方針が打ち出されました。横浜プリンスホテルもその対象となったのです。堤康次郎の時代から続いたプリンスホテルチェーンの拡大路線は見直され、採算の取れない施設の整理が進められることになりました。
また、立地条件も閉館の理由の一つでした。横浜プリンスホテルは景観が良い高台に位置していましたが、アクセス面での不便さが指摘されていました。最寄り駅のJR磯子駅からは徒歩で急坂を登る必要があり、多くの来訪者にとって不便を感じる点となっていました。このアクセスの悪さが集客に影響し、長期的な経営の視点からは不利な条件となっていたのです。
さらに、当時のホテル業界の競争環境も閉館の背景として挙げられます。バブル崩壊後の平成不況が長く続く中で、都心部や主要観光地では新規ホテルの開業が相次ぎ、横浜市内でも宿泊施設の選択肢が増えていました。特に交通の便が良い都心部のホテルとの競争が激しくなる中で、立地に不利な点を抱える横浜プリンスホテルの集客は徐々に困難になっていたと考えられます。
これらの経営上の課題、立地条件、市場環境などの複合的な要因により、長い歴史を持つ横浜プリンスホテルは閉館の決断を下すこととなりました。閉館後、ホテルの敷地と建物は売却され、跡地の再開発計画が進められることになります。半世紀以上にわたり横浜のランドマークとして親しまれたホテルの閉館は、地元住民や長年の利用客にとって惜しまれる出来事でした。
磯子プリンスホテルは西武グループの再編で売却された

2006年、西武グループの経営再建計画の一環として、磯子プリンスホテル(横浜プリンスホテル)は売却の対象となりました。西武ホールディングスの傘下で再編が進む中、不採算資産や将来の成長が見込めない施設の整理が進められ、長い歴史を持つ横浜プリンスホテルもその波に飲まれる形となりました。
2006年3月、西武HDは複数の入札の結果、野村ホールディングスグループの投融資会社ユニファイド・パートナーズに横浜プリンスホテルの優先交渉権を与えることを発表しました。その後、ユニファイド・パートナーズが新たに設立した特定目的会社「磯子開発特定目的会社」を通じて、横浜プリンスホテルを西武鉄道から取得することで合意に至りました。売却額は約150億円とも伝えられています。
この取引では、ホテルは6月末に閉鎖し、跡地は住宅地として再開発されることが決まりました。3月30日には、横浜プリンスホテルをユニファイド・パートナーズが設立する特定目的会社に譲渡し、6月末までプリンスホテルが賃借して営業を継続するという形がとられました。
その後、4月7日には東京建物が横浜プリンス所在地で大規模マンションを開発すると発表しました。この発表によれば、跡地には約2,000戸規模のマンションが計画されていました(実際に建設されたのは1,230戸)。東京建物はこの開発プロジェクトのために特定目的会社に出資する形で参画しました。
このように、磯子プリンスホテルの売却と跡地開発は西武グループの経営再建と不動産業界の再編の中で進められました。最終的に横浜プリンスホテルは2006年6月30日に営業を終了し、その後解体されて新たな街づくりが始まることになりました。かつてのホテルの面影を残すのは、旧東伏見邦英伯爵別邸である「貴賓館」のみとなりました。
閉館前には「50年アリガトウ」の感動的なメッセージが掲げられた
2006年6月30日、横浜プリンスホテルの最終営業日には、多くの人々が思い出の場所に別れを告げるために訪れました。地元の人々、常連客、元従業員など様々な人たちがホテルの最後の姿を見るために集まり、最後の食事や飲み物を楽しみながら、このホテルにまつわる思い出話に花を咲かせました。
この日の夜、ホテルは133の客室の窓明かりを使って「50年アリガトウ」という光のメッセージを描き出しました。このメッセージは日付が変わるまで照らし続けられ、半世紀にわたり多くの人々に愛されてきたホテルの最後の挨拶となりました。この光のメッセージは、訪れた人々の心に深い感動を与え、ニュースなどでも広く報じられました。
近くに住んでいた俳優の田中邦衛さんもこの日に姿を見せ、顔見知りの従業員に「お世話になりました」と挨拶する姿が目撃されています。また、予約客で満席のレストランやバーでは夜遅くまで半世紀の思い出話が尽きることはありませんでした。ホテルの最終日には、単なる商業施設の閉鎖を超えた、地域の歴史の一区切りを感じさせる雰囲気がありました。
閉館前の期間には、館内での写真展も開催されました。ホテルの長い歴史を振り返る写真や資料が展示され、訪れた人々は懐かしさを感じると同時に、その歴史的な価値を改めて認識する機会となりました。これらのイベントを通じ、横浜プリンスホテルの閉館は単なる施設の終焉ではなく、地域全体が共に歴史を振り返り、新たな始まりを迎える契機となりました。
実際にその場に居合わせた人々は、別れを告げる「光のメッセージ」を目の当たりにし、このホテルで結婚式を挙げた思い出などが心をよぎり、胸が熱くなったと語っています。多くの人々にとって、横浜プリンスホテルは単なる宿泊施設ではなく、人生の重要な瞬間を共有した特別な場所だったことが伺えます。
このような心温まる最後の演出は、横浜プリンスホテルが地域社会と深く結びついていたことを象徴しています。50年という長い間、地域のランドマークとして人々の生活に溶け込んでいたホテルの存在は、単なる建物を超えて、人々の記憶や感情の中に確かな位置を占めていたのです。
プリンスホテルの名前の由来は皇族の別邸から生まれた

「プリンスホテル」という名称には興味深い由来があります。この名前は、西武グループの創業者・堤康次郎が戦後の混乱期に皇族の土地や別荘を購入したことに端を発しています。堤康次郎は、太平洋戦争敗戦後に行われた皇族の皇籍離脱により生活に困窮していた旧宮家の土地を購入し、ホテルとして開業しました。
プリンスホテルの名称が初めて使われたのは、長野県軽井沢町千ヶ滝地区にあった皇族・朝香宮家の別邸を改装して1947年にホテルをオープンした際のことです。「プリンス・ホテル」と命名されたこの施設が、現在の大手ホテルチェーン「プリンスホテル」の起源となりました。その3年後の1950年には、旧根津嘉一郎別荘を改装した「晴山ホテル」(現在の軽井沢プリンスホテルウエスト)が、さらに1953年には旧竹田宮邸を改装した「品川プリンスホテル」(現在の高輪プリンスホテル貴賓館)がオープンし、プリンスホテルのチェーン展開が始まりました。
「プリンス」という名称は英語で「王子」を意味し、皇族の別邸を改装したことから付けられた名前です。堤康次郎は旧宮家の土地を購入しただけでなく、グループ内で旧宮家の人々を雇用することで生活の安定にも寄与しました。東京都港区の高輪や芝公園などの一等地に多くの不動産・ホテルを所有するようになったのも、こうした皇族の土地を取得したことがきっかけでした。
磯子プリンスホテル(横浜プリンスホテル)の場合も、元々は東伏見邦英伯爵の別邸であり、この「プリンス」の名前の由来に沿った歴史を持っています。東伏見邦英伯爵は昭和天皇の義弟にあたる皇族出身者であり、その別邸が西武グループに買収されてホテルとなったわけです。
このように、プリンスホテルという名称には日本の戦後の歴史が色濃く反映されています。旧皇族の資産が民間企業に移行し、新たな形で活用されるという戦後日本の社会変化を象徴する存在であると言えるでしょう。堤康次郎が始めたこのビジネスモデルは、その後のプリンスホテルチェーンの拡大につながり、日本におけるホテル・レジャー産業の発展に大きく貢献することになりました。
磯子プリンスホテル跡地の現在と周辺環境
- 磯子プリンスホテル跡地はブリリアシティ横浜磯子に生まれ変わった
- 磯子プリンスホテルの跡地マンションは全13棟1230戸の大規模開発
- 磯子プリンスホテルの貴賓館は歴史的建造物として今も残っている
- 磯子プリンスホテル跡地のグランドエレベーターは60mの高低差を一気に上る
- 磯子プリンスホテル跡地からは東京湾や富士山が一望できる絶景ポイント
- 磯子プリンスハイツはホテルと直結エレベーターがあった特別なマンション
- 磯子プリンスホテル跡地周辺は商業施設や医療施設も充実している
磯子プリンスホテル跡地はブリリアシティ横浜磯子に生まれ変わった
2006年に閉館した磯子プリンスホテル(横浜プリンスホテル)の跡地は、その後大規模な再開発が進められ、「Brillia City(ブリリアシティ)横浜磯子」という大規模マンション群として生まれ変わりました。東京建物を中心に東京急行電鉄、オリックス不動産、日本土地建物販売、伊藤忠都市開発という5社の共同事業によって開発されたこのプロジェクトは、2013年に竣工しました。
ブリリアシティ横浜磯子は、東京ドーム約2.5個分に相当する約11万7,000㎡の丘陵状の広大な敷地に建設されました。敷地面積の約75%が緑地として確保されており、緑豊かな環境の中に住まいが点在するゆとりある住空間が特徴です。この広大な敷地を活かした開発は、単なる住宅建設にとどまらず、地域の新たなランドマークとなることを目指していました。
マンション群は全13棟、総戸数1,230戸からなり、約3,300人もの人々が暮らす一大コミュニティを形成しています。A〜M棟と名付けられた各棟は、敷地内に分散配置され、それぞれの棟から異なる景観が楽しめるよう工夫されています。プロジェクト名の「Brillia」は東京建物の分譲マンションブランドであり、「City」の名が示すように、単なるマンション群ではなく、一つの「街」として機能するよう設計されています。
敷地内には住民の生活をサポートするさまざまな施設が充実しています。スーパーマーケット、ドラッグストア、カフェ、クリニックモール(内科、小児科、歯科、耳鼻咽喉科、調剤薬局)、保育園、クリーニング店など、日常生活に必要な施設が一通り揃っているため、敷地外に出ることなく多くの用事を済ませることができます。
また、磯子タウンマネジメント倶楽部による「いそご丘の上マルシェ」など、住民と周辺地域の人々との交流を促進するイベントも定期的に開催されています。こうした取り組みにより、かつての磯子プリンスホテルが持っていた「人々が集う場所」としての機能を、新たな形で引き継いでいると言えるでしょう。ブリリアシティ横浜磯子は、単なる住宅地を超えて、コミュニティの中心としての役割も担っているのです。
磯子プリンスホテルの跡地マンションは全13棟1230戸の大規模開発

ブリリアシティ横浜磯子は、磯子プリンスホテル(横浜プリンスホテル)跡地に建設された全13棟、総戸数1,230戸からなる大規模マンション群です。この開発は東京建物を中心とした複数のデベロッパーによる共同事業として進められ、A棟からG棟までが2013年5月に、H棟からM棟までが同年11月に竣工しました。各棟は敷地内に分散配置され、丘陵の地形を活かした住環境が実現されています。
ブリリアシティ横浜磯子の特徴の一つは、その充実した共用施設です。マンション内にはグランドコンシェルジュと呼ばれるラウンジ的な共用施設があり、コンシェルジュデスクやポスト設置スペースが用意されています。また、ガーデンスイート、スカイスイート、ジャパニーズスイートという3種類のゲストルーム・オーナーズスイートが用意されており、専有面積約60㎡と広々としたスペースで来客をもてなすことができます。
さらに、キッチンスタジオ、キッズルーム、マルチルームなど、多目的に利用できる共用スペースも充実しています。特にキッチンスタジオはホームパーティー用の人気施設で、2つのスタジオが隣接して設置されており、中央の可動扉を開けて繋げて使うこともできます。マルチルームには巨大な鏡が設置されており、住民同士がヨガやフラダンスなどの活動に利用しています。
住民の自治活動も活発で、理事会と自治会が中心となってコミュニティ形成が図られています。理事会は13の棟から満遍なく選出された理事で構成され、任期は2年で半数を入れ替えることでノウハウの継承が途切れないよう工夫されています。また分科会制度を導入し、総務・予算・会計/施設・設備/防犯・防災/広報の4つの分科会が専門的に課題解決に取り組んでいます。
住民間の交流を促進するイベントも多数開催されています。自治会は季節のイベントや行事を企画し、理事会との協働で防災訓練なども実施しています。例えば2019年11月には地元の磯子消防署の協力で水消火器や起震車体験、グランドエレベーター横の非常階段の降下体験などを含む防災訓練が行われ、実体験参加とZoomオンライン配信の両方で多くの参加者がありました。このように、ブリリアシティ横浜磯子は単なる住宅地ではなく、人々の交流や安全を大切にした共同体として機能しているのです。
磯子プリンスホテルの貴賓館は歴史的建造物として今も残っている
磯子プリンスホテル(横浜プリンスホテル)の跡地に建設されたブリリアシティ横浜磯子の中で、唯一当時の面影を残しているのが「貴賓館」です。この建物は、1937年(昭和12年)に東伏見邦英伯爵の別邸として建てられた歴史的建造物で、1993年に横浜市の歴史的建造物に認定されています。ホテルが解体される際も、この貴賓館だけは歴史的・文化的価値が認められ、保存されました。
貴賓館の外観は、緩やかな傾斜の屋根とひさしが幾重にも重なって城郭のような印象を与える和風建築ですが、実は鉄筋コンクリート造という近代的な構造を持っています。内部は洋風の造りで、2階から3階の階段部分は吹き抜けになっており、天井には星形の模様が見られるなど、東洋と西洋の美が融合した独特の空間となっています。
この建物は歴史的にも重要な役割を果たしてきました。戦後は終戦連絡事務局長官の官邸として、またGHQ(連合国軍総司令部)やフランス使節の宿舎としても一時使用されていました。横浜プリンスホテル時代は「貴賓館」と名付けられ、レストランや宴会場として使用され、多くの特別なイベントや式典の舞台となっていました。
現在、貴賓館はブリリアシティ横浜磯子の敷地内にありますが、マンションの住民だけでなく一般の人々も訪れることができる形で保存されています。2014年から2019年までは中村孝明氏プロデュースの創作和食レストラン「中村孝明 貴賓館」として営業していました。1階にはカジュアルに利用できるダイニングエリア、2階には本格的な懐石料理を楽しめるエレガントな空間が整備され、伝統と現代が融合した食体験を提供していました。
この貴賓館の保存は、単に古い建物を残すという以上の意味を持っています。それは地域の歴史と記憶を未来へと継承し、開発と保存のバランスを示す好例となっています。ブリリアシティ横浜磯子の開発において、貴賓館を中心とした地域開放スペースが設けられ、マンションの住民と周辺地域の人々との交流の場としても機能しています。
貴賓館に隣接する形で「地域開放スペース」も設置されており、約48㎡の広さを持つこのスペースは、長椅子32台、椅子27脚が設置され、地域住民も利用可能な多目的スペースとなっています。利用時間は9時〜18時(原則4時間以内)で、1時間500円で貸し出されており、地域の集会や小規模なイベントなどに活用されています。
貴賓館は、ブリリアシティ横浜磯子の中でも特別な存在感を放ち、マンション全体の価値を高めています。住民にとっては誇りとなる歴史的建造物であり、訪れる人々にとっては横浜の歴史を感じることのできる貴重なスポットとなっています。このように、貴賓館の保存と活用は、地域の文化遺産を守りながら新たな魅力を創造する優れた事例と言えるでしょう。
磯子プリンスホテル跡地のグランドエレベーターは60mの高低差を一気に上る

ブリリアシティ横浜磯子の特筆すべき設備の一つが「グランドエレベーター」です。このエレベーターは、国道16号沿いの歩道レベルと丘の上にあるマンション敷地を結ぶもので、約60mという高低差を一気に上り下りすることができます。JR根岸線磯子駅から徒歩4分の場所にあるグランドエレベーターの入口は、磯子駅入口交差点脇に位置しており、長い急坂を避けて快適に移動できる画期的な設備となっています。
グランドエレベーターは、マンション居住者だけでなく一般の方も利用することができます。利用料金は片道52円(2021年時点)で、交通系ICカードで支払う仕組みになっています。入口には鉄道駅と同様の改札ゲートが設置されており、カードをタッチして通過します。定期利用者向けには最短1カ月、最長6カ月の定期利用料金も設定されているため、通勤や通学で日常的に利用する方にも便利です。
エレベーターの入口から内部へ進むと、円形断面で白を基調とした内壁に間接照明が照らす直線通路が数十メートル続いています。この通路はまるで宇宙ステーションの内部のような未来的な雰囲気があり、訪れる人に強い印象を与えます。通路の奥にあるエレベーター室は一般的な密閉空間で、階数ボタンは「1」と「2」のみという単純なものですが、大きな高低差を移動するため、上層階に達するまでには少し時間がかかります。
マンション敷地レベルにあるエレベーター出口付近には、野外デッキの展望スペースが設けられています。ここからは根岸湾岸の景色が一望でき、コンビナートやガントリークレーンなど工業地帯の風景を楽しむことができます。この展望スペースは訪れる人々に開放されており、磯子の街並みを見渡せる貴重なビューポイントとなっています。
このグランドエレベーターの設置は、ブリリアシティ横浜磯子の大きな特徴であり、高低差のある地形という従来のデメリットを逆に活かした設計と言えるでしょう。特に高齢者や小さな子どもを持つ家族にとっては、長い急坂を避けて移動できることが大きなメリットとなっています。また、このエレベーターの存在によって、丘の上の住民の生活圏が広がり、磯子駅を中心とした地域との一体感も生まれています。
磯子プリンスホテル跡地からは東京湾や富士山が一望できる絶景ポイント
ブリリアシティ横浜磯子の最大の魅力の一つは、その立地がもたらす素晴らしい眺望です。海抜約60mの丘の上に位置するこのマンション群からは、北側に横浜市街地、南側に東京湾や房総半島、西側には富士山や丹沢山地が見渡せる絶好のロケーションを誇ります。かつての磯子プリンスホテルも、この優れた眺望を活かした高級ホテルとして知られていましたが、その伝統はマンションとなった現在も受け継がれています。
日常の暮らしの中で、刻々と変化する景色を楽しめることがこの場所の大きな特権です。晴れた日には遠く富士山のシルエットを望むことができ、日の出や日の入りの時間帯には特に美しい景観が広がります。夜になると、横浜市街地や湾岸エリアの夜景が輝き、また違った魅力を見せてくれます。住民によれば、日が沈む直前の時間帯や夜景は、何年住んでも見飽きることがないとのことです。
敷地内には遊歩道が整備されており、トータルで約2kmの散策ルートが設けられています。この距離はJR根岸線で磯子駅から根岸駅までの距離に匹敵するほどです。丘の上は程良いアップダウンがあり、ウォーキングするとそれなりの運動になる一方、約60m下のグラウンドレベルと比べると緑地の多さも相まって風が涼しく感じられるため、暑い季節でも快適に散歩を楽しむことができます。
敷地内の遊歩道からも随所で素晴らしい眺望を楽しむことができ、特に遊歩道の一部からは東京湾を一望できるスポットがあります。晴天の日には対岸の房総半島もくっきりと見え、開放感あふれる景色に心が癒されます。これらの景観スポットは住民にとって日常の憩いの場となっており、特にテレワークが増えた近年では、仕事の合間のリフレッシュにも活用されています。
2018年10月には、敷地内の古木3本が横浜市の助成金対象「名木古木指定」を受けるなど、自然環境も大切にされています。そのうちの一つはコナラで、樹齢約60年、高さは約20mあります。緑と景観に恵まれた環境は、都心にありながら自然との調和を感じられる貴重な住空間となっています。
磯子プリンスハイツはホテルと直結エレベーターがあった特別なマンション

かつての横浜プリンスホテル時代、その麓には「磯子プリンスハイツ」と呼ばれるマンションが建っていました。このマンションの特筆すべき特徴は、マンションの屋上から丘の上にあったホテル地下フロアまでを「プリンスブリッジ」という施設で結んでいたことです。また、マンション内には施設利用者専用の直結エレベーターが設置されており、住民はわざわざ坂を登ることなくホテルを利用することができました。
磯子プリンスハイツは2001年(平成13年)に竣工し、西武建設が施工を担当しました。当時、横浜プリンスホテルを利用する宿泊客や施設利用者にとって、この直結エレベーターとプリンスブリッジは非常に便利な設備でした。急な坂道を避けてホテルにアクセスできるこの仕組みは、後のブリリアシティ横浜磯子のグランドエレベーターの先駆け的存在だったと言えるでしょう。
現在の磯子プリンスハイツは、ホテルが閉館した後も存続していますが、かつてホテルと直結していたプリンスブリッジの機能は失われています。しかし、このマンションの歴史は、横浜プリンスホテルと地域の関わりの深さを示す一例として興味深いものです。丘の上のホテルと麓のマンションをつなぐという発想は、地形の特性を活かした先進的な取り組みだったと言えるでしょう。
なお、ブリリアシティ横浜磯子が建設される以前は、磯子プリンスハイツからの橋が横浜プリンスホテルのどの部分に接続していたのかが気になるところですが、おそらく奥の建物の屋上あたりがその入口だったのではないかと考えられています。ただし、確かな記録は残っておらず、現在ではその詳細を確認することは難しくなっています。
歴代のプリンスホテルでは、このような周辺環境との一体化を図る試みがいくつか見られます。例えば品川プリンスホテルと高輪プリンスホテルを繋ぐ連絡通路や、西武新宿線の駅に直結する新宿プリンスホテルなど、アクセスの利便性を高める工夫が随所に見られます。磯子プリンスハイツのプリンスブリッジも、そうした西武グループのホスピタリティの一環だったと考えられます。
こうした過去の工夫や取り組みは、現在のブリリアシティ横浜磯子の設計にも一部継承されており、グランドエレベーターによる国道16号沿いの歩道と丘の上のマンション敷地を結ぶ仕組みに反映されています。地形の特性を活かし、アクセスの課題を解決するという思想が、時代を超えて受け継がれていると言えるでしょう。
磯子プリンスホテル跡地周辺は商業施設や医療施設も充実している
ブリリアシティ横浜磯子の魅力の一つは、敷地内及び周辺エリアの充実した生活インフラです。敷地内には「マルエツ」をはじめとするスーパーマーケット、ドラッグストア、カフェ、クリニックモール(内科、小児科、歯科、耳鼻咽喉科、調剤薬局)、保育園、クリーニング店などの生活利便施設が整備されています。これにより、住民は敷地外に出ることなく日常の用事を済ませることができる便利な環境が整っています。
特に医療面では、磯子二丁目に2010年に移転した磯子中央病院が近隣にあり、緊急時の医療体制も整っています。このような医療施設の充実は、子育て世帯や高齢者世帯にとって安心して暮らせる環境を提供しています。
商業施設としては、磯子一丁目には相鉄ローゼン・ヤマダデンキ・ニトリを核店舗とするショッピングセンター「マリコム磯子」があります。これはかつてバブコック日立の工場があった場所で、1999年に工場が閉鎖された後に開発されたものです。また、久木町には商店街「浜マーケット」があり、地域に根ざした商店が集まっています。この浜マーケットは戦後の1945年頃に形成されたもので、長い歴史を持つ地域の交流拠点となっています。
交通面では、JR根岸線磯子駅から徒歩4〜10分というアクセスの良さも魅力です。電車を利用すれば横浜駅へはわずか14分、品川へも31分程度で到着するため、通勤・通学に便利な立地となっています。また、国道16号や首都高速道路へのアクセスも良好で、車での移動が多い人にとっても利便性が高い環境です。
さらに、前述のグランドエレベーターが地域全体の移動をサポートしているのも大きな特徴です。マンション敷地と国道16号をつなぐこのエレベーターは有料で誰でも利用できるため、急な坂を避けて簡単にアクセスできる点が周辺住民にも好評です。一日平均約3,000人が利用するという数字からも、その重要性がうかがえます。
このように、磯子プリンスホテル跡地周辺は、住環境だけでなく、商業、医療、交通など様々な面で充実した環境が整っており、単なる住宅エリアを超えた複合的な魅力を持つ地区となっています。旧ホテル時代の高級感を引き継ぎながらも、より生活に根ざした機能が充実した街として発展を続けています。
まとめ:磯子プリンスホテルは50年の歴史を経て新たな街へと姿を変えた
最後に記事のポイントをまとめます。
- 磯子プリンスホテルの前身は1937年に建てられた東伏見邦英伯爵別邸である
- 1954年に「横浜プリンス会館」として開業し、その後「横浜プリンスホテル」として発展した
- 1990年に村野・森建築事務所設計の新館が完成し、441室を誇る大型ホテルとなった
- 閉館の主な理由は西武グループの経営再建に伴う不採算施設の整理であった
- 2006年6月30日の閉館時には「50年アリガトウ」の窓明かりでメッセージが描かれた
- 跡地には「ブリリアシティ横浜磯子」という全13棟1,230戸の大規模マンションが建設された
- 旧東伏見邦英伯爵別邸である「貴賓館」は横浜市の歴史的建造物として保存されている
- 丘の下と上を結ぶ「グランドエレベーター」は約60mの高低差を一気に上り下りできる画期的な設備である
- ブリリアシティ横浜磯子からは横浜市街地、東京湾、富士山などが一望できる絶景が広がる
- マンション内には多様な共用施設が充実し、住民の交流や快適な暮らしをサポートしている
- 敷地内外には商業施設や医療施設も整い、生活に必要な環境が整っている
- 「磯子タウンマネジメント倶楽部」などによる地域イベントも定期的に開催され、コミュニティ形成に貢献している
- かつてのホテルと直結していた「磯子プリンスハイツ」は現在も存在するが、連絡ブリッジの機能は失われている
- 「プリンスホテル」の名称は皇族の別邸を改装したホテルを手がけた堤康次郎の事業に由来している